ユーラシア大陸のすべてを掌握する大帝国の復活計画【世界征服ラジオ#3】中田考×えらいてんちょう
ハサン中田考×えらいてんちょうの【世界征服ラジオ】#3
■「神聖でもローマでも帝国でもない」
H:もちろん、西欧人は認めません。ローマ教皇の策謀で西ローマ帝国が滅びた後、カール(シャルルマーニュ)大帝(800年戴冠)、あるいはオットー大帝(936年戴冠)によって西ローマ帝国は復活したことになっていますから。
E:フランスの啓蒙思想家ヴォルテール(1778年)没に「神聖でもローマでも帝国でもない」とディスられた神聖ローマ帝国(1806年滅亡)とかいうやつですね。
H:じつは1453年のコンスタンティノープル陥落、西ローマ帝国滅亡で、ローマ皇帝を名乗り始めたのはオスマン帝国のスルタンだけではありません。
E:神聖ローマ帝国皇帝以外にもいるんですか?
H:モスクワ大公です。つまりロシア国王です。
E:ロシア国王ってローマ皇帝なんですか?
H:「ツアーリ」って言葉、聞いたことがあるかもしれませんが、この「ツアーリ」はローマ皇帝「カエサル」の教会スラブ語、ロシア語読みです。東ローマ帝国が滅亡した後、モンゴル帝国のジョチ・ウルスから独立し「タタールの軛(くびき)」を脱したモスクワ大公イヴァン3世(1505年没)がツアーリを名乗り始めます。この時期にロシアで「2つのローマが陥落し、第3のローマ(ロシア)が興きた。そして第4はない」という「第3のローマ」理論が生れました。第2のローマとはコンスタンチノープルのことです。そして孫のモスクワ大公イヴァン4世が1547年にツアーリとして戴冠されます。これ以降、モスクワ大公国はロシア・ツアーリ国と呼ばれます。
もっとも、ツアーリは東スラブ人のローカルな皇帝だったので、西欧風に「インペラートル」と改称したのはピョートル大帝で、1721年以降をロシア帝国、それまでをロシア・ツアーリ国と呼び分けます。
E:なるほどねぇ。ローマ帝国が滅んでも、偉大な世界帝国ローマ帝国の思い出は人々の間に残ったわけですね。それでその正当な後継者、本当のローマ皇帝なのかをめぐって、いろいろなところで、いろいろな人間が「我こそはローマ皇帝だ」と自称していたわけですね。日本だと外国人が天皇になってしまう。大規模な南北朝みたいなものですか。
H:そうですね、どちらかというと秀吉の朝鮮出兵とかがそれにあたる気がします。
E:というと?
H:秀吉の本当の目的は明(みん)、中国の明朝、の征服で、朝鮮はその通り道でした。
E:文禄・慶長の役(1592-1598年)ですね。
H:その通りです。当時の中国の明朝は、日本では蒙古襲来で知られたモンゴル人の異民族王朝大元帝国(元朝中国)を倒してできた漢民族の王朝でしたが、16世紀末には国力が衰えており17世紀初頭に満州族が建てた後金国に滅ぼされ、1636年には異民族王朝大清国が成立します。秀吉の朝鮮出兵も、広い東アジア史の文脈では、漢民族の国だった中国に異民族の王朝が出来て中華秩序が再編されていく時代の、日本人が異民族王朝を立てようとして出発点で失敗した例とみなせます。
E:確かに、朝鮮出兵も当時は「唐入り(からいり)」なんて呼ばれていたらしいですね。
H:もともと、中華秩序というのは、漢人の古い礼儀作法を体系化してまとめた儒教の教養を身に着けた文明人の世界です。その外には禽獣(きんじゅう)に等しい蛮族が住んでいる夷狄(いてき)の地と思っていたわけです。
E:その蛮族が中華を征服して皇帝になってしまったんですね。
H:そうです。モンゴル人の元朝と満州(女真)人の清朝ですね。そうすると、漢人でなくても、儒教を漢人よりもよく守っている自分たちこそ本当の中華だ、という考え方が生れて来るんです。李氏朝鮮には漢人の明朝が滅びて異民族の清朝ができると、朝鮮こそ本当の中華だという考えが生まれます。日本でも明朝が滅びたことで、皇統が途切れない日本こそが中華であり、中国が外朝だ、という日本中華思想が生まれました。
E:確かに、明があった土地に清があるというだけで、その清が明を継承しているのか、というと本当にそうなのか、ということですね。
H:そうなんです。ローマ帝国にしても、中華秩序にしても、人間の頭の中にある考えですから、そう思う人にとってはそうだし、そう思わない人にとってはそうじゃない。欧米人や日本人がそう思わなくても、トルコ人やロシア人の中には、自分たちこそがローマ帝国の正統な後継者だと信じている人たちがいるんです。話をトルコに戻しましょう。